ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
候箱をたずさえ、友子ならば打物(雑刀)を携行した。又喪auみしもつか主は麻上下、そして脇差のみ待し、その柄は白布で巻くのを礼とした。女は束髪で化粧せず、葬列に加はるならわしであところで槍挟箱を持つといっても、中期以後、武家のった。窺乏が甚だしくなると、その支度がないので朋輩から借りるやうになった。その朋輩にも用意がないと、どうにもならないので賃借の道具屋が出現した。葬場に行く間だけ貸し、笠門提寺へ着くと共に料金を取るのである。下十は多くこの道具屋から借りて体面をつくろった。さて、行列が葬場に着くと、僧が読経のあと引導をわたし、つづいて近親者が焼香するのは今日と変わらない。そのあと火葬か土葬にしたが、肉体のある限り霊魂は離れないとの思想から、将軍、大名などの土流では土葬がおこなわれた。地中に埋めたあとは盛り土の墳墓とし、上比率塔婆を立て乙の葬送にあたって、善根ぞほど乙すため、葬場近く路上の貧窺者に銭を撒きあたえるしきたりがあった。て供養した。はじめは純粋な施しの意味だったが、やがては見栄の手段となり、貰う万も当然の拾得物のように、隣近所がたがいにさそい合せて集まって来た。なかには施主にせびる者さえあらわれた。また、中期以後は会葬者をもてなし、六道銭など追々増額するなど葬式がぜいたくになった。そのため哀悼の意が薄れ、葬儀費用のかけすぎから遺族が貧困に落ちる乙ともあった。そこで幕府はそれを憂慮してたびたび葬儀緊縮令を出している。たとへば、寛保二年(一七四一一)の町触では六道銭をやたら惜に入れるのは国家の財宝を失うことである。が永年の慣宵とて岐まらぬゆえ、今後、寺々より信徒に無益の趣きを申し聞かせよとあった。筆者郷土史研究家横山貝塚石津政嘉-77-横山貝塚ハ潮来町大字水原横山ニアリ、水原ノ鎮守香取神社ヨリ、東北万四百米位ノ所ノ畑地内一一アリ。周囲ニハ、数多ヴノ土器ノ破片ャ、貝殻ノ集積地力各所一一散在シテイル。其ノ中デ一段ト小高ク、貝殻ノ屑モ厚イ貝塚ヲ、昭和四十九年三月二、潮来町郷土史研究会ガ主催卜ナリ、町教育委員会ノ後援ヲ得-T 、県埋蔵文化財専門委員海老原幸先竺指導ノ下ニ、同好ノ士四十数名ト発掘調査セシ所、員殻、縄文土器ノ破片、動物ノ骨、貝製腕輪、石器、草土等出士、海老原先中モ、縄文後期ノ住居駈ト認定サレ、斉古学上貴重ナル文献ト鑑定サレタノデ、維持管理ノ重大性ヲ痛感シ、町当局ニ要請シチ、周辺ノ土地百坪ヲ買収シ、維持管理ノ完壁ヲ期スルコ