ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
- ページ
- 83/114
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている83ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ふるさと潮来 第五輯 の電子ブックに掲載されている83ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ふるさと潮来 第五輯
除薬の法一、麦毛三匁山把子同神智同若干脊同枝問薄荷同右八味生委を入れ、神の如し。せんじ用ゆれば万一病を受ても軽き乙と一、奮香木香右三味等分にふり出し、ーυ。日々用ゆるもよろ右三味等分大脳に合せ、よき焼酎弐五匁程ひたし、布にて乙し、折々用ゆるもよし。て砂糖揚へよき酢と焼酎を少しづっ加へ、毎朝一杯つつ用うるもよし。又あわもりの極上の焼酎を毎日少しづっ用技肉意豆端苦、合程へうるもよし。一、枯松子の実と黒砂糖へ硝石を加へ、焚きて打乙ろぐべし。丁字を加え是は邪気を払ふのみ。宅内潮来町文化財保議官川議委いは「ふるさと潮来」編集委は七軒丁自立の経緯大久保皇自昨年じ軒丁では、老桁化した集会所を解体し、建設委員長医長窪谷武夫の両氏はじめ多数の建設委員や町内住飯川降、民の努力と協力によって、約二倍の広さをもっ七軒丁会館新その際発見された記録によると、旧集会所は昭築をしたが、和二一年十二月三十一日の建設となっており、新会館の完成した日は奇しくも五十年自にあたり、また七軒町自立当時の文その経緯について書いてみたい。書も発見されたので、まず江戸時代の潮来村の姿について、植田敏雄先生の書か(『ふる3と潮来』第一輯一四貞)か-81-れた「潮米のあゆみ」ら引用させていただくと、江一同時代において城下町以外は、公民は村と称していた故、名称は潮米村であったが、一丁目二丁目の名称が示す様に実質的には庄郷町である。この在郷町の行政組織は城下町と大体同様で、水戸藩では家格のよい有力青が年寄の中から選ばれている。潮来の場合も同じで、年寄には津谷、関一同、日本、石田の四姓から選ばれた「八人頭」といわれた仔力行があった。(中略) 乙の八人の有力者の子孫がそれぞれ一丁目より八丁けの付政を支配し、村全体に関係するものは八人の協議によって決