ブックタイトルふるさと潮来 第五輯
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ふるさと潮来 第五輯
十番区の沿革橋本義衛その音太平洋に続く入海であった此の地方一帯は、今から約五百年前応永の頃から暴風雨のある度比両毛(上野下野) の諸山の土砂が濁涜となっておびたたしく流入し、毎年全域が汎濫する状態であった》後徳川幕府により江戸市中を洪水の惨禍から守る為江戸川を開通し、関宿に杭出しを設け布佐台と布川台の聞を通して利根川と結んだ為洪水の度に板東太郎は荒れ狂い、上流より押し流し来る土砂は益々多く遊泥の沈澱は急速を加えた。入海は漸次縮少して遂に霞ヶ浦、北浦、箕輪田市和田余田浦の湖沼に分れ、利根川北利根川横利根川鰐川の各流域に広大な土地を与えた。天正の頃板来の地先にも洲渚が形成され真菰萱の生い繁る所となり、潮来内洲から東方に向って横貫し浪逆浦に至った北利根川の支流野留川を、常陸下総の国境とし、乙の川以南を二重谷と称して、下総国香取郡に属し十六島の一つに数えられ、幕府代官所の管轄におかれた、村人は始め草刈場として許しを得タキギ、屋根葺K利用していたが、米を作る為開拓を志し全村民連名を以て願い出漸く許されて共同耕作権を得除々に開墾の実績を伸ばして十番にも及んだのである。正保二年幕命に依り二重谷村となり、元禄末年潮来村嘆願して国郡の境界が改まり、常陸国行方郡に編入、明治元年大政奉還となり二重谷村は宮谷県に後若森県に属した。明治五年潮来村が水戸県より新治県民転ずる時村名を廃して潮来村二重谷となり、大字潮来在籍の人民中其の祖先がζの地の開拓民尽力した子孫、又はその縁故者の共有地と定めた。共同耕作地文共有地の管理は完全な平等公平を原則に村捉二重谷条例K従い、庄屋、年寄、組頭、戸長、委員並に人民惣代が之にあたった。耕作については、乙の土地が高低肥痩の差甚だしき故三年毎抽選により分割交換する事とした、文遠近により一割が一反五畝から二反余で周囲はすべて江間で仕切られ笹葉舟で通った、今の娘船頭の始まりである。-7-越えて明治二十年潮来村二重谷組と命名新規約により十二年毎交換と改め、後時勢の推移民従って明治三十四年三月各人が占有していた土地を分割し個人所有とした。斯くの如く殆んとの村民が組員となり共同開墾共同耕作、共有地として二百年以上続いた事跡は極めて稀な事であった。弦に二重谷築堤の恩人窪谷作太郎翁がある、翁は嘉永元年九月二十五日朝来に生れ幼にして宮本茶村先生に師事して学徳を学び、長じて、識見卓越明治廿四年十二月推されて潮来町長托就任した、当時二重谷は無堤防であり年毎に水災に遇い三年に一度の収穫をもって満足するの水患を除かんと決意し、