ブックタイトルふるさと潮来 第五輯

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概要

ふるさと潮来 第五輯

前略島山国のわが祖国では板東太郎の利根川と東北の大河阿武隈川と帝釈山脈系を分水嶺として東と北とに分れて交流なく、それぞれ太平洋に終着するのであるが、人為の力を発揮すれば毛細管をみなぎらせて水利、交通、治山、治水、発電の文化を追い求め得るが、中国ほどに拡がった場がないまま、北あさかの郡山に安積疎水発電(蘭人フワン・ドルン指導)、南に多摩川水路、笠原(水戸)水路、常陸水門位のものに止まっている。しかし空飛ぶ候鳥は日本海を行き交っては車木の実をついば啄み、清水を求め、時にはその羽翼民ダニまで伺種類もつけたままでシベリヤから渡り、暫し日本列島の時に休む。その様や巣はもう兎毒(今の野兎病菌)の分布地区ともなって獣や人に触れると経皮感染して、リンパ腺を膨らませて文化の対象因子ともなる。須賀川文化圏で独自に新しく野兎病菌を発見した大原八郎の一統は、南の八溝山分水嶺を隔てて那珂川文化圏の稽醤舘を初めは知らなかった。小川村に土着して本格的医学の実践をした本間玄琢(潮来の本間道悦より五世)、玄有、玄調と三代に百一る精進努力と純粋な学道の心を発揚した極が玄調(八代目が藁軒と号し、俗名資章、字は和卿、烈公(斉昭)の賜名「救」である)となってH兎毒H、食兎中毒のユニークな指摘も偶然ではなく、しかも謙虚にわが主張するところもまた活物窮理といって師の華岡青洲の偉大さをのみ讃えた。彼は医の本質に和漢洋を区別せず、常にその信ずる長所を採って、基盤を化学的、物理的に究めて自然科学的に止揚しようと指向した。それが彼の謂う「内外合一、活物究理」で進殴的格物(ものにいたる)の理念である。一部で彼を折衷派と云うがその表現は低い。今日一部に機械施設依存の技術職人然たる医?も増えつつあるのであるが、それと対聴的に私は事象に処する科学する心の人となりを重要視すべき彼の理念として強調したいのである。彼は本邦初の下腿切断手術(脱痘の患者で水戸藩の岡部辰蔵(お才)、野川黒羽の人留五郎(叫才)を引続き手術し刊日の経過でいずれも完治し助命された感謝文を呈しそれが現在も保存されている)を全身麻酔下で敢行し、化膿もなく全治させた人で、死亡する筈の重病者でも皆助けるので民衆は驚嘆し、藩主烈公もかつて急病に擢った時玄調の治療を受けqun『dて立ちどころに快癒したので「救」と命名のお墨付を贈って医功を讃え、紋付肩衣を下賜されて祝宴を張られ、公夫人(貞芳院)は自らお酌ヂされた。乙れは嘉一、氷五年(一八五二)四月十九日で玄調日才の時である。玄調の光栄は思うべく、その後彼は署名に本聞は単に「救」と書くようになった。救、或い今回発見した手紙にもほとんど皆本間救と署名が見られる。玄調は華岡青洲に師事して出藍の誉があるのみならず、長崎にシlボルトを訪ねて研修を加え、さらに自ら功を積み内外合て和漢洋の医学に精通した大医であり、鋭い具眼の