ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
文をむつ鐘は、本町の長勝年鈴をはじめ、京・以都港区麻布広尾町の阿ぜんご弥陀寺鐘(鐘銘は『禅居集』にも収録されているが、もと鎌倉市一鼠ヶ谷にあった法泉寺の鈍であるが、この年はムーはない)および静岡県旧ほんりゅうじかけこみ方郡韮山町の本立与鐘(この鈍はもと縁切LJ駅込寺として街名な東慶寺のもので、江川太郎左衛門がト人砲鋳造の材料として購入したが、銘’lv五一w文もあり、音もいいので、笠口堤トヴである本立与に納めたと記されている)の三鐘で、銘文はいずれも清則和尚の自筆で、きわめて貴重な遺品である。( 坪井良平『日本の党鐘』『日本古鐘集成』)また、鎌倉幕府滅亡の前年の二三二一(天慶二年七月十四H、北条高時らが寄進した浄智寺鐘も清拙和尚の撰で、銘文はみられるが、鐘は現存しなぃ。私の知りえるかぎりでは、清拙和尚の撰になる鐘銘は六篇あるが、六百五十余年の風雪に耐え、しかも寺からの流出を免れ、本来あるべき姿で現存するのは、わずかに本町の長勝寺鐘だけであり、きわめて貴重な文化遺産である。鎌倉幕府滅亡後の長勝寺の歴史については不明であるが、彰孝館蔵『水戸開基帳』に「鎌倉時代には寺領百余貫、並びに驚固の武士三騎、みだ本尊弥陀の後見人一人、鎌倉より参り候ふ。(中略)併し鎌倉御代の後は、廃壊仕り候て、無住同前に、独り坊主など居り申すに付き、古録物紛失仕り候ふ」とあり、荒廃した様子がうかがわれる。一五九O(天正十八)年豊臣秀吉が北条氏を攻めて全国統一を完成する小田原征伐にいち早く参陣した佐竹義宣は、秀吉の権力を背景に、翌年当地の支配者島崎氏を含む大橡系の、いわゆる南方三十三館を平定した。しかし、十年後の関ケ原合戦には参陣しなかった佐竹氏は、秋田に国替となり、潮来は水戸藩領(南領)となった。第二代藩主徳川光聞は、(寛文五)年諸寺院法度を出して宗教統制幕府が一人六五と取締りの強化に乗り出したことを受けて、翌一六六六年領内の寺院の実に五十二パーセントあまりにおよぶ一O九八寺を整理するという」F」ι『義公行実』の「古利廃寺の若きは、徹底した寺院整理を断行した。皆修葺輿復す上円い由緒のある寺ではあるが廃寺となっているものは、すべて修繕復興する) 」という光聞の方針に則り、長勝寺は廃寺同然であったものを、鐘銘によってその由緒が認知され、常陸太田に引退後の西山時代( 一六九Ol一七OO)に、京都妙心寺二百五十三世のたいが〈そしん太獄祖清和尚(福島県二本松の松岡寺開山)を招き、当時隆盛におもむいた臨済宗妙心寺派の禅利として中興された。その時期については、長勝寺の寺伝では元禄四l七年となっているが、上関戸家に伝わる『長勝寺陳札写』『長勝寺物語』などでは、元禄七年以降となってお8-り、昭和の大修理で墨書がどちらを実証しているか関心のもたれるところである。光園の『常山文集』の元禄四年( 一六九二ごろの作品加と推定さししたいがくかやかたはらとよたまたまここれるものに賜紫太岳和尚、退隠して茅を長勝寺の傍に把る。予偶此ごうあやつふを過る。閑談すること終日。即席にして毒を操りて長句一篇を賦も勺こうぼうし、以て高昨に備へて云ふ。われじようほう冬景吾を引いて上方に到らしむ。おのづか軒傾き殿古く自ら荒涼たり〈注〉妙心清拙鐘に銘し「賜紫」は朝廷から紫衣を賜ることで、紫色の僧衣は最高の色じふう低う「上方」は寺院の住持(住職)のこと。古来、住持の居処法を伝へ脈派を分つ声霜を聴く(以下略)衣である。