ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
十五年。その後、錫杖を携えてのんびりと行脚歴遊して諸山諸寺を巡りんにんぜんとうり、霊隠寺(中国五山の第二位の北山景徳霊隠禅寺。斯江省杭州府銭塘いおうあいおうざん県西方の雪霜山にある)の密書伏、育王山(中国五山の第五位の阿育王山にんぼうきんしょseん広利禅寺。断江省寧波府邸県東方の阿育王山にある)の東岩浄日、蒋山しょ&ざん(中国十利の一。蒋山太平興国禅寺。江蘇省江寧府上元県東北の鐘山にある)の月庭正忠らの諸大老に謁見した。皆師に坐禅を勧めた。まくりんゼレむじんでんとしんた、当時すでに上流の地位にあった古林清茂、東酬明徳海、鈴一回一悟心、たくさんいつかん断江覚恩、空遠口義、沢山弐威などは、皆師の法友であった。僧堂内の坐位はさておいて、〔すでに文筆僧として名をなしていた)月江正印禅師は師の実兄であり、その道徳や名声は天下に響きわたっていた。わいてんわいすレ師のとった振舞いもまた賢明であったとされている。とうとう准旬(准水あんきろざん地方。安徽省南陵県の南)から鹿山(江西省南康府星子県の西北にあさいりんじる名山で、山中に東林寺、西林寺などがあり、仏教の霊地として有名である)に行脚して、江(唐代馬祖道一が住して禅修行の一大中心地ぜつとなった江西省)の東西や斯(漸江省。江西省と漸江省は、宋代仏教の最も盛んな地方であった)の南北にわたり、あちこちの祖師の塔に遍歴巡礼をなしとげた。師がその地で詠んだ詩が残っており、すべて.〔その好例として〕松厳秀が麗山の西林寺に退居しさんしゅうばんだんた折に、一見して称賛したという「一山万開元に主たり。杉袖を晩断あへ(担} ひょ〈きりんぎょ久長』んするも肯て留らず」の句がある。虚谷希陵禅師が仰山に住職していた。師はあちこちを遍歴して修行に回ったが、禅僧としての眼(悟り)がめ〈らむがんす開けず、修行上からは盲(悟りの開けない僧。無限子)同然であった。げひおう師はまず偽を進呈した。虚翁はそれを見てたいへん喜んだ。虚翁が出伝請されていた。て来て、遂に師とお会いになっていった。「どうして当山に来るのが遅かったのか」と。師は大衆の禅僧たちに従って、僧堂内の坐位に着いた。師は、ある晩夜中まで端坐参禅して〔かつてよく仏心和尚からう〈む〈(剖) わ提示された〕「有句無句」の話(話頭。公案のこと)を取りあげた。ろうφ えかくよい勺たいらんさい{羽)師は、すぐさま『部耶意見和尚語書の「樹倒れ藤枯れ好し一堆の欄却さしっちゅうという類則を思い出して、急に〔故人である〕仏心和尚の室中の用途を見てみると、広やかでからりとしており、伺のわだかまりも残ってしゅそいなかった。間もなく、師は板首(版首。首座のこと)になってほしいと要請された。禅林の盛大な儀式典礼を師に一任して執行したとこひおうおごきびかげんろ、寺の僧侶たち会貰が極めて唾粛であった。虚翁は厳そかで峻しい寡言な方であったが、師と会えばきまって議論が跡切れることなく続いた。ゆいぶつよぶっすなわよこれ(剖} きんざん最後に「唯仏与仏、乃ち能く之を知る」と言い残して、虚翁は径山(中国五山の第一位の輿聖万寿禅寺。漸江省杭州儀杭県の西北にある天目山の東北峰の山麓にあり、禅門の大道場である)に遷ってしまっぎょSeんしゅそうきんざんまいきげんきた。仰山の衆僧の総意で、以前の径山の晦機元照和尚を招轄して、そまいおうの後任にしようとした。師が特使となった。ところが、晦翁はその招請を避けて遠方に姿を暗ましてしまった。師はゆっくりと尋ね歩き、しばらくしてお目にかかることができて、晦翁といっしょに仰山に登っしゅそえんしゅた。師を再び首座とした。衰守(江西省嚢州の役人)の本斎王は、初-20一対面にして〔師に師事し〕仏道を尋ねた。たちまち二人の心境がびっげきたりと合致した。翌日嚢守の搬(徴召の文書。めしぶみ)が来た。鶏足山聖因寺に出世されたい(住持になってほしい)という要請であっじゆえんはっとうた。〔師はその寺の住持となって開堂(新任の住持が入院の際、法堂L陪うねんこうぐこ〈ちえを聞いて初説法を行なう行事)し〕嗣法拍香して仏心和尚(愚極智慧)の法を嗣いだことを表明して、その供養をした。師は、着任後半年足