ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

しゅそうらずで僧堂を新に建立して、衆僧の望みを満した。また、他宗の信者たちも〔師の教化で〕禅道に帰依した。師は坐禅を励行し、戒律を厳ふうす守して〔参禅学道に専心し〕副寺の職に任ぜられたこともあった。僧ぜっこう俗ともに師を敬慕した。師は一住四載(四年)で退隠し、斯江省に帰つぜんげて、俗兄の月江正印和尚を何山(何山宣化禅寺。断江省呉輿県の南西にある)に訪ねた。結局、師は江蘇省松江県(上海市の西南にある)曹渓山真浄寺(のちの真清寺か)の招請に応じて祉いた。着任するや、こんじき層楼を建て、大きな党鐘を鋳造し、仏像を金色に装飾した。師の功業が成就したことを伝えた。(担)い勺さんいちねいはっす{描)日本の檀信徒(不明)の派遣した使節( 一山一寧の法嗣月山友桂)が、師を招轄するため渡来した。師は仏心〔和尚の教えである永元〕の道を伝え広めたいと思い、喜んで招請を承諾した。〔師の一行は〕えい舎おとも船に乗って東方(日本)に向った。弟子の玉田永鋲が御伴をした。元たいていへいいんかり@〈の泰定三年丙寅( 一三二六、日本の嘉暦一、師五十三歳)の六月中は、ふん’ル仇ソ耽羅(済州島) ・高麗・新羅などの国々を歴遊した。〔その聞に〕題一誌を行った。これは別録に載せた。八月博多に着いた。明年( 一一二二七、嘉暦二)正月京都に上った。鎌倉幕府(北条高時)の使者(一山{訂)派の可心祖安)が迎えに来て、建長寺の住持とした。三月十二日入寺式。檀信徒は師の指導に従い、中国の禅林で行った方がよいとされるこヲこうふせっ儀式は、すべてこれを挙行させた。師は開堂して告香普説した。新にLんぎ(掴)衆寮(修行のため建長寺に留る掛搭僧の寮舎)を造営して、清規を中りんにん国五山第二位の霊隠寺のように整備したのは、日本では最初のことであった。十の僧閣を新設し、それぞれに扇額を立てて大長老を配した。檀信徒を教化して賀積保荘二千石を寄進させた。僧侶たちは信服してなっき従い、参禅学道に精進した。師は三年で退隠した。また浄智寺もろもろを主宰し、諸々の儀礼や作法を講じ実践した。禅堂で執行われる坐禅はんの場合、板(版。禅院での鳴器の一種)を鳴らして行事の変化を知らせるのが常であるが、それを行わずに坐禅ばかりに専念しており、休む時間もないほどであった。それにもかかわらず多くの修行憎が師〔の坐禅至上の家風〕を慕い、予約もせずに集って来た。師は一年余りを過して、また円覚寺に選った。師は警策を盛んに振って、ますま〔一三三三年五月二十二日北条高時が自刃しふくぜんこあん一住四載で巨福山建長寺の禅居庵に退隠した。間もなく京都の東山建仁寺に赴くよう〔後醍醐天皇の〕詔命が届いた。勅使は左衛門督藤原実世で、自ら師に開堂を要請した。寺の資産は元来少なかったので、師は天皇に奏上して薮田荘を賜った。そこで、師むいんげんかいこうはんは無隠元晦に第二座(「清拙和尚語録」の付録によれば、後板、即ちこうどうしゅそかしい後堂首座)についてほしいと要請した。晦は師の要請を承諾して、「私はながいこと片閏舎におりまして、日常の立居振舞にも威儀作法す坐禅の励行に努めた。て、鎌倉幕府が滅亡し〕-21を失っております。どうか師、ご指教をお願いいたします」といって、しん智{掴)〔建武甲氏( 一三三四)六月の〕ある日、晦が「禅林備用清規」( 一たくさんいつかん一一二一、元の至大四年、沢山弐威の撰述した清規。沢山清規)を袖の中に入れて、師の教示を仰いだ。〔清規の研績を重ねるうちに〕百丈忌はじようしんぎはじようえかい(師の私淑する百丈清規の編者百丈懐海の命日の一月十七日)が来たほうえのを見て、師がいった。「当地(日本)の禅林では、この百丈忌の法会わL ぜんげを設けていないが、もし私の遷化する日がちょうどこの日に当ったなわしらば、私の追善供養とあわせて百丈忌の仏事を営まなければならない」と「禅林備用清規」の巻頭にメモして、後日の〔晦は師の予言を〕