ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
証拠とした。時の経つこと三年。その問、師は修行僧たちと苦楽を共にした。ある日〔後醍醐天皇が師を〕内裏に招いて、親しく南禅寺にさとがん昇るよう諭した。しかし、師は頑として受付けなかった。天皇の要請りんじはますます執助になり、勅使が輪旨を奉じて到来した。師は、そこで初めて勅命を拝承した。朝系の南禅寺にとって〕時局の極めて多難なときに当って、師は多く〔中興の業やぶれ尊氏が室町幕府を聞き、南の修行者を集めて坐禅を励行した。これは師の建仁寺時代と同様であっなの{ 崎)た。信濃(長野県)守小笠原貞宗が家子郎党や一族の年寄子供を伴って来訪し、師から全員受戒をし衣を受けて、弟子の礼をとった。〔さぽんきつらに貞宗は〕信州伊賀良庄を治めていて党利(寺院)一所を創建し、山号を畳秀山と名付け、寺号を開善寺と命名した。師を招聴して開山はじようしんぎ{却あっと第一世とし、同時に師に依頼して、百丈清規に則って〔開山式を〕挙{叫} ぼレん行した。それからちょうど三年目に当る戊寅( 一三三八、南朝延元三、北朝暦応二十二月十七日、師は縁の尽きたのを予知して〔南禅寺の〕しゅそう衆僧を集めてお礼の言葉を述べた。しかし、両序の長老が慰留して〔住持の退院上堂を知らせるための〕退鼓を打つことを許さなかった。あんじ@たいくそこで師は、大喝して声をはりあげて行者を叱りつけ、退鼓を打たせしゅそうしゅじようて上堂。そののち衆僧に別れを告げて、住杖を携えて山門を出た。師ぜんごあんは脇目も振らずまっすぐに東山建仁寺の禅居庵に直行したが、大勢の雲水たちが、あたかも大地から水が湧き出るかのように、ぞろぞろと随った。三方、南禅寺の〕僧侶たちは会議を聞いて善後策を検討し- - e、a、Jh4μ 〔そのことが光明〕天皇の耳に達した。翌十八日、師に再起せよとの詔命が下った。しかし、師は病気を理由に懸命に辞退して就任しなかった。かさねがさね天皇のお召しがあり、三度にも及んだ。師は無理をおして〔同日南禅寺に〕再住した。僧侶ともにたいへん喜んきぽうだ。明年己卯(一三三九、南朝延元四、北朝暦応二) 正月十日、師はあレさつ市内におもむいて諸山の〔僧侶、公卿大名等の〕諸官に年賀の挨拶をした。やがて夕方になると、少し気分がすぐれないと訴えた。医者が来たが、皆がこれを押返した。十二日、信濃の守護小笠原貞宗に女があり、長い闘病生活の末、今まさにど臨終というところであった。そのため〔貞宗は師に女の〕受戒と剃髪得度を要請した。終えて〕帰堂するとひどく疲れていた。けれども、その後学僧と戦わ〔師はそれをした問答応酬には気力の衰えはなかった。師の法語を求める者が多く、運筆律事が少しも手を休めることなく続いた。十五日になって、師は両序の進退式(新任式と退任式)を執行った。〔それに続いて、両序しゅそうしょ企んの役僧が〕衆僧をお相伴して催す茶礼の席に臨んだが、早めに退席し-22-紙を探して、諸山の尊宿(長老の高僧)ゆLげ{拍}宛た形見の遺備を書いた。しかし、いちいち書き遣す必要はなかった。あんじ@ゆレげ〔師は、一示寂の〕前年に行者に命じて、遺備を書いた二本の清江紙を・官員・道旧(旧知旧友) に表装して〔ちゃんと用意をして〕おいたからである。だが、それを他人に気付かれるようなことはなかった。十六日、師は侍僧に命じてゆレげいかい〔かねて用意しておいた遺備を〕取って来らせた。一本は遺誠を書いたものであり、もう一本は辞世の頒を書写したものであった。また、げじゅ天皇に宛てた遺表を作成した。十七日になると、師の書きあげた備煩ふでや法語は、束ねるほどの量となったが、〔すべて自筆で〕他人の筆をあいベつ仮りることはなかった。そうした後、剃髪泳浴して更衣をし、新しい鮭犠なんら(くっとくったび)に履きかえて端坐談笑する様子は、普段と何等変ほうきときぞんこうるところはなかった。伯番(鳥取県)守土岐〔頼貞〕(法名存孝) が、