ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
しょA世つ子の弾正少弼〔頼遠〕、孫の刑部少輔〔頼康〕とそろって来訪した。師に挨拶をして容体を尋ねた。師は応対に大儀そうな気配はなく、ゆったりと落着いた態度で言置いた。「今や、天下はやや安定し、畿内も今まさに平和になろうとしている。幸いあなた方は〔修行成就、仏法うつしみ護持の〕願力によって、この世の現身は宰輔(宰相)であられる。国げこ家の支柱となってしっかりと天皇を補佐するとともに仏法を外護されわししゅ長」うるがよい。私の祝薦(国家の昌平と天皇の平安を祈っていること)をまゆいげ忘れてはなりませんぞ」と。師は眼のあたり遺備を書き、古銅の香炉をそえて永別の思いを表わした。頼貞が泣いていった。「師がこの世けとうにご存命であられて、師の化導が終りとなってしまうことがなければ(今までとおり親しくお導きを受けられるなら)よいのですが」と。頼貞は一炭をふり散して別れた。また、足利大夫将監源公〔直義〕およりぶ(四)び大友吏部侍郎源公〔氏泰。法名独峰清親〕が来訪して、戒法をお受えうけしたいと〔師に受戒を〕依頼した。師は両人の法名を改め、衣孟(ころもとわん)を渡し、同時に戒法を授けた。しかし、師に不機嫌ら424つな素振りはなかった。終に師は侍者の澄密を呼んでいった。「お前は、わしわしまっζこれ、私の最後の侍者だよ。だが、私の末後の一句(悟りの境界について述べた語。参禅学道の極意)がわかるかい」と。衝は感泣して言葉が詰ってしまい何もいえなかった。師はかんらからと声高に大笑しはじようしんぎ(祖) はじようえかい「ところで、今日は百丈清規の祖師百丈懐海の命日である。はくおうた〈しゅそ〔侍惜に〕命じて要視控目座・ていった。わし私はム手きに来世へ出立するところじゃ」え(国)古田虞首座・玉峰喋都寺を呼寄せて〔臨終に立合せ、間違いなく百丈ゆLげ目。〕忌日に寂したことを〕証明させた。師は遺備を点いて〔次のように〕詠じた。石空地ら三毘u火か神1十嵐t電怒L;三空;光つ天を追て星巻へ把と斗‘いどる湿五ても鉄ふ“海及牛。水ぶの立こ鞭t ちと莫なし師は筆を投げつけるかのように手放して、心静かに逝去した。後醍醐天皇は師の遺表を見て、深く京悼の意を表し〔二月十七日に〕大鑑ついL (臼) しゅそうゆいげ禅師という追誼号を贈った。諸山は師の遺書を見、衆僧や守臼貝たちは遺偏かんしゅんこFEつを見て、悲しみは尽きなかった。師は南宋の戚淳卜年甲成(一二七四、きほう日本の文永十一)正月十三日口時に生まれ、日本の暦応二年己卯(一三三九)正月十七日酉の時(午後六時ごろ)に示寂した。〔師の遺骸ひつぎを納めた〕棺を三日間停めておいたが、顔の様子はあたかも生きてい〔最後の別れを告げるため〕拝顔する者が多く、だび数えきれないほどであった。〔師の亡骸は、京都〕東山の西南の岡で茶火よじん(火葬)にふしたが、余燈(燃え残り)については、僧俗ともに舎利-23るかのようであった。(遺骨)を拾う者が大勢であった。そんな訳で、灰も土も先を争って取合い、きれいになくなってしまった。師の最後(命終)にあたって〔遺徳の〕盛大さに、師を敬慕しない人はなかった。げしゅう語録三巻と外集(詩文集) 二-巻を刊行した。〔師の人滅後〕〔師、が生前に〕得度〔授戒をし、法を伝授〕した弟子は若干名にのぼっけんぜL(盟)たが、その弟子のひとり重宝賢貨は、よく師の遺命を守って〔禅僧にとっては私有財産のすべてである〕衣鉢を尽して出(寺田)を買い求はじようきめ、南禅寺の常住(禅院の運営面を担当する役職の総称)に、百丈忌(却)の仏事にあてるための永代供養として寄進した。また雲林清深というさがみ弟子がいた。彼は土肥武衛平公の要請に従って、相模(神奈川県)の