ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

れる。文献LJ学館E『日本泰百山科聞大ひ事て典云H』くしんなう「宇宙、心王を騒開善寺史のなかに(原漢文)いまいづれところ乱して未だ安からず。何の処ぞあんじんりうみ@うこ安心立命去す」と。ほっすたておこ清拙、払子を竪起す。いはえ泰山云く。「会さず」と。いはい?っ@うけんこん師(清拙)云く。「一張の弓、乾坤を射倒す」と。え泰山、言下に於て会すこと有り。云々。はじゃうしんぎ清拙、百丈清規を行ふ。すなはこれとこれ泰山、乃ち之を撰り、射騎進退の儀礼を整美す。是、小笠原式礼式の発端、云々。泰泰山山正観宗応大元居こ年士じ(とお一誼自三すな五。。八月二十五日卒す。寿五十七。(但)開善寺は、所在地が飯田市上川路町一OOOで、畳秀山と口写し、建武二年清拙正澄の開山、小笠原貞宗の開基創建と伝えられたが、&nwa仰いしょ近年発見された文書によって、鎌倉末期北条氏の手によって開創されたことが明かになった。貞宗が「吾が子孫たる者、法系を〔大鑑)禅師に承けずんば、子孫にあらず。又家緒(家業)を嗣ぐべからず。開善を以て氏寺となすべし」いっているように、(『五山詩僧伝』)とげこのち小笠原氏の菩提所となり、その外護を受の道場として日本十刺の一つけ、寺領二千石を有し、大鑑派唯に列していた。『全国寺院名鑑』〔文献〕(位)清拙和尚が南禅寺を退隠する一三三八年十二月十七日から逆算一三三五年十二月十七日を開山式と推定し「越に三年」として、読んだ。この年は寺伝とも合致する。傍証史料は見つからないが、「清拙和尚語録」にも開善寺語録がないことからも、現地へおもむいたとすれば建仁寺在住三年の聞に貞宗から迎請された一時的な勧請開山であったものと考えられ、この点、文脈や時間的な考察からも符合する。「越に」は発語のことば。いかいげじゅぜきと〈(必)遺誠備頒の略。高僧碩徳が入滅に際して、後人のために残す偏。そこには大悟の境界や心境感想等が辞世の語として書かれている。〔文献〕『禅学大辞典』(叫)清拙和尚の遺偽で、その墨跡(紙本、縦三六・六センチ、横九二・四センチ。鎌倉の常盤山文庫蔵)は、入滅直前に最後の気力をふり較って書いた絶筆で、国宝(昭和二十七年十一月二十二日指定)である。墨跡とは、特に茶道では禅僧の書跡を指しいう。これは、村田珠光が大徳寺の一休宗徳に参じて、印可の証明としえんごこ〈どんて授けられた国情克勤(五祖法演の法を嗣いだ宋代の禅僧)の墨-27-跡を茶室に掛けて茶禅の味の境地を味わったのがはじまりで、だいえそうこう〈りんせいむ以来、大慧宋呆・痴絶道沖・古林清茂・清拙正澄などの宋元代の禅僧の墨跡が尊ばれるようになった。清拙和尚は、尊崇する百丈懐海の百丈忌を禅林の年中行事に加え、(暗)月十七日に禅居庵にに無隠元晦に予言したとおり、その忌日の寂し、世に百丈禅師の再来かといわれたが、臨終に間に合わなかってんきゅうた弟子の藤典厩某(『延宝伝灯録』)が、棺にすがって泣いたとたちまころ、師は忽ち目を聞いて戒法を授け、再び目を閉じたという伝説があり、この奇跡から「棺割の墨跡」といわれている。このたぜんごゆいげめ、建仁寺の禅居庵には「棺割」という三帖の茶席があった。遺偏