ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
潮来祇園祭礼大臓の文字の解説について秋毅氷夫潮来祇園祭礼の各町内の臓に書かれた文字の意味、謂れ、揮毒された人物、経歴、祇園祭の起源、素鷲熊野神社の変遷等について以下解説を試みることとしたい。なお、本稿は昨夏、中央公民館主催『ふるさと講座』において講演したものを今回本誌に掲載するについて若干補足加筆したものである。上町lこの峨の文字は『鎮守御祭櫨』とあって出血ハの珪索は必要ではないが、字は実に墨量豊かで生気に満ちている。誰れの俸聖かと思って調べたが『米奔』の文字があまりに達筆すぎてなかなか判読出来ないでいるうちに、親しくしている書家の宍倉の風氏に見せたところ米奔(奔1竜1庵いずれも同字)つまり市河米庵であることが分った。河三亥の河は市河のこと。三亥は亥年の亥の日の刻に生まれたので三亥という。この頃の文人は姓の一部を簡略して中国風にする風があった。例えば田能村竹田は字を君勢と言ったので姓の一部を略して田君葬と称し、与謝蕪村は謝を姓とした。米庵は幕末の三筆(市川米庵、貫名海屋、巻菱湖)の一人で誠に著名な書家である。しかも米庵四十六歳の充実した時期に書かれたものである。潮来にどうしてこんな大家の書があるのかと思ったが、当時江戸は文化文政の欄熟期で今日我々が儒学や漢詩や書画などの文化面で名を耳にする有名人はほとんどこの期に多い。恐らく米庵も文人墨客として潮来に遊び、何度か来遊しているうちに土地の肥懇の誰れかに揮事を依頼されて書いたものであろうと思われる。丁度下町の轍.かそうであったように。運筆の『かすれ』は筆に稲藁を使用したもののようで一57一ある。米庵の事績について以下若干述べる。安永八年( 一七七九年)生まれ、安政五年(一八五八年)閉店、八十歳、名は三亥、字は孔陽、通称小左衛門、別号百筆斎、小山林堂など。江戸の人、寛斎の長子、儒学を父に学ぶほか昌平聾の学者、林述斎、柴野栗山に受ける。加賀の前へいふっ回侯に招かれ、名声高く幕末三筆の一人、書は米帯( 一O五一-J一一O七年、北宋の人、書画の達人、画は山水にすぐれる。)明の神宗を慕い、又、長崎に到って清人胡兆新について一家を成す。大小侯の受業者二百人余、門弟の数、五千人と言われた。書に関する著書多く、