ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

で後に『龍は五霊の一にして、王者の嘉瑞なり。吾の字すべき所にあらざるなり。』と、遂に仲黙ど改む云々:::はやはり墓表の文に云うところである。清測先生の容貌については渡辺峯山が小宮山楓軒に中江藤樹先生の肖像を示して、『幡龍先生の顔よく藤樹先生の像に似たり、見られよ』と云われたということが楓軒紀談にある。五丁目素驚社併斎i・1111、. 3e・e ・‘aBala-a - ’ B胃、巴邑巴今回1・2目司咽-安政六年巳未六月吉日社下番老宮本元球謹書そがしゃへいきい『素驚社併斎』この臓は年紀にもあるとおり安政六年( 一八五九年)六月、社下番老(社の下にすむ長命の老人の意)宮本元球謹書とあって、即ち茶村先生の揮肇になるものであることが明らかである。先生は文久二年( 一八六二年)六月に亡くなられているので、この轍は丁度、その三年前、六十七歳のときに書かれたことになる。素驚熊野神社が現在の社名に至るまでの変選について概略を記すならば、平安時代の創建と伝えられる牛頭天E社が一応禄九年( 一六九六年)徳川光園によって現在地に遷され、さらに天保十五年で八四阿年)徳川斉昭によって素鷲神社と改号された。これは光国以来の一貫した水戸藩の神仏分離政策の現れと見られる。一方、熊野権現社も牛頭天王社が現在地に選された元禄九年に同時に同地に遷され、牛頭天王社が素驚神社と改号した天保十五年に熊野神社と改号した。これは『牛頭天王』も『権現』も何れも仏教に係りのある呼称なる故に改号となったものと思われる。さらに明治十年両神が合杷となり現在の社号となったのであるが、これは祭神が同じ素斐鳴尊であったためであろう。さて臓の文字の意味であるが『素鷲社の祭事に熊野社の祭事も併せ粛る』ということと思う。この頃の民衆は集会結社の自由については強い制約をうけ、祭礼などの場合にだけ或る程度の自由が認められたので、為政の側としてはこの祭りを二回に亘って別々に行うことは避けたのではなかろうか。同この社寺に対する諸改革は光園以来の水戸藩の神仏分離政策によqd poり領内全般に百一って行われた。例えば辻の碩宮神社なども改号前は今宮八幡社と称していたらしいが、『八幡大菩麓』として仏教とも習合するこの神は源氏によって『弓矢の神』として尊崇されたため、これを分離することと、さらには源氏ゆかりの神として領内に数多くの八幡社を持ちこれを崇拝した佐竹色を一掃する為、八幡つぶしが強行されたといわれる。この宮の改名も水戸藩の政治政策と宗教政策に深い関係がある。