ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

浪逆浦関戸覚蔵遺稿まえがき浪逆浦は約三百年の問、潮来町民に非常に貢献して来ました、現在外浪逆浦は鰐川干拓や延方干拓が出来たりして、やや小さくなったが、満々と水をたたえて鹿島神栖の工場群の影を写している。内浪逆浦は埋め立てられて住宅地に替わった、大正時代より埋め立て計画や干拓計画が三度企画され、又養魚会社等が設立されたが、いづれも農漁民等の反対で消え去った、そして戦争になり、農地開発の法の公布があって、昭和十六年( 一九四こ国の直営工事で干拓され、潮来町浪逆と成った、その後、鹿島港が起工し、大工業団地の建設が進につれ、昭和四十四年、浪逆土地区画整理組合に因って宅地造成の目的で埋め立てられ、昭和四十九年( 一九七四)潮来町「日の出」とPムつ冒】、手IJI此の「浪逆浦」の一編は、明治の頃に浪逆の変わり行くことを見越して書いたとは考えられないが、今、浪逆浦が大変化をした時代に此文書が見つかり、欣喜雀躍、蕊に活字にして公開したいと思います、この文書は明治の頃、関戸覚蔵が、「潮来町沿革誌」の一一項にする目的で、覚蔵の父主礼、祖父幸蔵等の書止めておいたものなどを整理し、その他を調べ書き上げたものと考えられます。原稿用紙に一字づっ填め込まれている字体や、論法、或るいは年代から相違ありません、潮来町沿革誌は桜山文庫に所蔵されていますが、原稿用紙(茨域県)に毛筆で清書されています、内容は潮来の名称から始まり変遷、村役人、二重谷村、神社等で浪逆浦に関しては何も書いてありません、なお此の沿革誌の原稿の綴りが私共に有ります、そして浪逆浦は、題名の上に() が記してあって数字が入れられる様に成っていますので、続巻などのために書いたものと考えられます、原文を少し現代文に替えてあります。一九八八年関戸忠男浪逆浦なさかうら浪逆浦古くは「波逆海」と称した、仙覚万葉抄に、「ナサカノ海」とあり、風土記にはこれを「流海」と書けり、今の人は「ウチノ海」-68-と云う、と記されてる、そして、この「ナサカノ海」とは何処を指して名付けたものか不明だが、蓋し是れは地勢の変遷によるものであろう、往昔、下総国(千葉県)海上郡と常陸国(茨城県)鹿島郡との聞に大江あり、その先が二つに別れて、一つは行方郡と鹿島郡の聞に広がる「高天浦」即ち今の「北浦」である、も一つは行方郡と下総の堺を経て、信太、河内の両郡、(後に合併して稲敷郡となる)及び新治郡の北に広がる今の「震ケ浦」である、浪逆海あるいは流海と称したのは蓋し是等の総称であろう、そして此の海、満潮の時は渡が逆流したので、仙覚はこれを見て「浪逆海」とは此処を云うのだと考証した、小宅正順も「常陸国誌」