ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
を編するとき、仙覚の所説に従った、風土記の噴には既に、三、四里の洲渚が海中に頭角を顕はして居て、今は漸次拡大して、大部分は村落或いは水田となっており、潮来、延方、鹿島郡中島村、香取郡新島村の聞に、僅かに池沼の如き一水面が残されている、これが「浪逆浦」である桑槍の変、感嘆すベし云々、と万葉集に記載されてる、浪逆浦は内外の二つに区別されるが、この区別が出来たのはいつ頃か知ることが出来ない、寛政十年( 一七九八)十月、水戸藩南郡役所吏員出張立ち会いの上、{子後開州の東端北側の水中に、周囲五尺余りの松の標杭を打ち込み、又その対岸延方村地内字延方谷武田伴右衛門、河岸を去る十間(約十八メートル)の処に(谷界江間より少しく東方)にも同形の松杭を打ち込み、双方の標杭を見通して東方は「外浪逆浦」西方は「内浪逆浦」なり、この時、此標杭を打ち直したのは、内外を区別して魚漁や鳥猟の運上金(税金)を内外各々別に徴収するためにしたものである、然しこの時の記録を見ると、古く打ち立ててあった杭が腐朽したので、新たに杭打ち立て云々、とあるから此以前より内外の区別があったものと考えられる、前総代名主七兵衛より、文政十年( 一八二七)五月、香取郡境島村公儀評定所に差し出した「漁業差障り取り除きの訴訟」の書類には整然と内外の区別が立ててあった、然るに明治十九年( 一八八六)中に後開州より延方谷まで水中に堤ぜばみ防を新築したので、(俗に之れを狭海堤防という)それ以来、世の人々の内には往々之が内外の境界であると誤認する者があった、そもそも金@ rIM重つ此堤防の敷地は、狭海網代(俗称あじ)を敷設したる処で、此網代敷設は前記寛政十年に、宍倉権兵衛の先祖権次郎に許可せられたもので、始めは内外浪逆浦の境界上に敷設すべき筈のものであったが、それでなまずかわは能川吐口に接近し過ぎ、同所魚漁の妨害になると云うことで約二百間北方、即ち内浪逆浦の方に設置したものなり、該漁業は内浪逆浦に出入りする魚を捕えることを目的とし、現在の如き二重谷の堤防は未だ設置されておらず、出水の時、或るいは吐流しの頃は頗る豊漁の処すだであった、水流の関係上、費立ては禁じ、専ら網代を定置するに限った、右の如く多年網代を設置していたため、自然に土砂が沈澱し、水深が浅かったので、便宜上ここを堤防の敷地にしたものなり、故に内、外浪逆滞の境界とは何ら関係はない、浪逆浦の利用は潮来村が水戸港より許可されたものなり、これは潮来村には二重谷村(土地だけで住民の居ない村)の持ち添えがあったので、田畑等は他村の農家に比較して、かなり多く、これに反して肥料の不足は切実であった、この為水底の藻を採取し、また小蝦、ごろ、たん貝、いば其の他の雑小魚類を捕獲して肥料に供する目的で藩許を得ていた、其れ故他村の者の採藻、漁魚は一切厳禁して、年中番人を附て置き、厳重に監視させていた、付州新田(元二重谷村地内その後新島村の大字今は佐原市)の最東端字新須を俗に番久の鼻と云う、これは鹿島郡の諸村落、香取郡の大倉、一の分目あたりより採藻、漁魚等に密かに入り込む者が多いため、久兵衛なる者に番をさせた、久兵-69-衛ここに居住すること二十余年、世人は同人を「番久」と呼んだ、この事は古記にも見える、番人はこの他にも字十番に定置させた、そしてその番人は他村から来て採藻、漁魚等をしている者を発見した時は、