ブックタイトルふるさと潮来 第六輯
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ふるさと潮来 第六輯
ところで、身近な常陸水戸領については.とうであろうか。「廿三夜まち、廿六夜まち、異風のことなし。」で、水戸領については特別の記載がない。とに角、回答者が役人のことであろうから、庶民のことについてはわからない部分もあったであろうが、闇里蔵事記にも、諸国風俗問状答にも、特に女性との深い関わりは書かれていない。たしかに、月待信仰は、本来、女性の信仰であったではあろう。しかし、先に見てきたように、私の調査においても、広口の造立者で見る限り、女性のみのものもあったが、男性のみ、或いは、男女両性のものもあった。ただ、横田甲一氏が、「日本の石仏」の中で、室町時代から桃山時代の月待信仰の結衆は、男性主尊であったことを月待板碑によって述べており、この地においても、二十三夜塔の女性造立の名が見えはじめるのは、佐原市向洲地蔵堂前の安永年間の「女人中」からである。ついで、潮来町延方小泉、の文化元年の文字塔であり具体的に「おみの」等の女性の名が見えるのは、潮来町大生の文化十「小泉女人講」三年のものである。これによって、女性が、二十三夜待の講に積極的に参加したことは認められる。だからと言って、これまでの例からもわかるように、十三夜待が女性のみの信仰や講であったとは言えないのである。十九夜塔については「女人」の初出は寛延年間であるが、如意輪観音が姿をあらわすのは正徳年間であるから、実際は、「女人」のよ又{子が見えないこの時期から女性の講へのかかわりが積極的になった時期とみることができる。それでは、正徳以前の女性の十九夜講とのかかわりは、どのようであったのであろうか。先に見た延宝年間の十九夜塔の中には、念仏の文字が見えた。このことから、十九夜と念仏との関わりを見のがすことはできない。坂口和子氏は、「女人講の造塔が目立ってくるのは、宝暦あたりの(日本の石仏)と述べ、西茨城郡岩間町の如意輪観音、子安観音の悉皆調査でも、元禄五年から、延享三年まで江戸中期以降からです。」の十九夜塔は、全て念仏供養だとされている。このことは、私の調査でも「女人」の文字が初出の寛延の十九夜塔と、それ以前の念仏の文字の見える十九夜塔とから、一致した見解をもつものである。メL,己、イムこをれ主らとのしこTこと講かのら義寛が昔日k Hリ話時モムcl ~ 註仏信著作p Cをあdふ'’ コるた主主、γ3ミピ考た子のソれでる-81はないかと思われる。石塔は、いかにも月待信仰らしく、十九夜議、十九夜供養塔との銘文をかかげてはいるが、主は念仏講であり、たぶん願主は、無学な庶民をリlドできる僧侶等が深く関係していたのではなかったか。女性名のない、男性主導と言われるこの時期にも女性とのかかわりはあり、やがて女性が一人歩きする芽がすでに出ていたのである。時代がすすみ、江戸中期J末期にかけては、日本全土に女人造立の月待塔が盛んに見られるようになった時期である。このことは、僧侶等の指導者によって作られたであろう講が、女性中心の講となった証しでもある。「磐城誌料歳時民俗記」十二月十九日の条には、十九夜念仏トイフアリ。女人ノ罪障ヲ減除スル為メ卜テ、毎月十九